2012年5月30日水曜日

ベガータ教の懺悔室

ベガータ教の懺悔室 信仰(応援)は生活の癒しなのです

川崎に惜敗した土曜日の夕方、半年ぶりにベガータ教の懺悔室が市内の居酒屋で行われた。参加人数は17名、結構集まったよな・・・と言うのが率直な想いではあるが、その理由が「チームの頑張り」である事は明白である。最近は「勝っても、首位でも満員にならない・・・」という現状ではあるが、逆説的に言えば「結構勝ってて、首位だからこそ、このくらいの人数がユアスタへ足を運んでくれている」とも言えよう。こんな事は考えたくもないが、「もしも、札幌のような試合結果が続いて・・・」と言う状況になっていたら、1万人オーバーが関の山だったはずです。前回の名古屋戦は16,000人でしたが、こんなに勝ってて、そして首位で、そんでもって相手が名古屋で16,000人なんだから、これが最下位で、0-7でボロクソに負けて、そんでもって相手が鳥栖だったら、1万人オーバーなんて無理でしょうな。だからこそベガルタンは、現状の16,000人をポジティブに考えるようにしています。土曜日のデーゲームって、意外と仕事なんかとの両立が厳しいんだよね。

さて、メンバーも揃ったようなので、そろそろ懺悔室へ行きましょう。今までなら、ここで「乾杯(^O^)/」をして呑んでから行なっていましたが、話題によっては呑み過ぎが原因で相談にはならず、グダグダになっちゃう場面が多くなったので、今年からは「呑む前にやる!!」を合言葉にしたいと思っています。それでは、最初の懺悔者の方、貴方の想いを主にお話し下さい。

主よ私は信者歴3年目のOLです。つまり、昇格してからの信者と言う事になり、諸先輩方には大変申し訳ないのですが「J2の苦しさ、そして昇格の厳しさ」は知りません。私が知っている信者ライフとは「それなりに余裕があった残留レースと、震災後に快進撃を続けた昨年、そして首位に立っている今年」の3年だけであり、信者(サポーター)とすれば、それはそれは恵まれた人生だと思っています。そんな私に、今後の教訓と言うか、信仰を続けるうえでの秘訣のような物がありましたら、是非ともお教えください。

主はこう仰いました

イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
『ヨハネによる福音書』5章6節

信仰(サポーター)生活とは、希望に向かって歩く生命力です。沙漠のように生きることを拒むような世知辛い浮き世(例えば入れ替え戦など)でありますが、その中を歩み続けるタフな生命力を持つということに信仰(サポーター)生活の醍醐味があるということを是非、覚えておいてください。本当の幸せとは「入れ替え戦で敗れ、そして泣き崩れ、耐え凌んだ向こう側」にしかないのです

しかし信仰が病んでしまうということがあります。聖書(Vプレス)も読む。祈りもする。礼拝(サポート)も守っている。願い(優勝の)もある。しかし、その歩みが、時に数年、いや、数十年単位の忍耐が必要となり、その遠大な行程へ歩む力こそ「信仰(サポーター)の力」ないのです。それはちょうど、ベトザタの池のほとりにいた病人が、癒されることを願いつつその池のほとりに38年間も身を横たえながら、心の底では「自分には池に入る力がない。誰も自分を池に入れてくれる者がいない。私は癒されない」と、絶望していたように・・・。

あなたは、来る日も来る日も、身を横たえて、祝福の泉を眺めるだけの霊的無力な信仰者 (例えば、首位に立っている順位表を眺めたり、快勝した試合の録画や、解説者が絶賛しているスポーツニュースのコメントを見続けるなど) になっていないでしょうか。イエス様はあなたに問うておられます。「なぜ、見ているだけで、それを実際に手に入れようとしないのですか。」、「なぜ信じていながら、希望に向かって歩まないのですか。」、「あなたは本当にそれを手に入れたいのですか。」

その時、あなたは「主よ、それは不可能です。私は今幸せです。歩かなくても、十分に試合を楽しんでいます」と、力なく答える者になっていないでしょうか。横たわっているだけ歩く力がないということは、信仰の病の証拠なのです。選手は、いや、チームは頑張っています。そして、その頑張りで私たちは幸せな日々を過ごせているのは事実でしょう。しかし、そこで思考が止まってしまえば、やがて貴方は「38年間も身を横たえながら、心の底では「自分には池に入る力がない。誰も自分を池に入れてくれる者がいない。私は癒されない」と、絶望していた老人と同じになってしまいます。私はその事が心配です。

そんな貴方に、なお「あなたは治りたいのか」と近づいてくださる方がイエス様です。イエス様は、「あなたにできなくても、他の誰にもできなくても、私にはできる」という頼もしいお心をもって、私たちに「治りたいのか」と呼びかけてくださるのです。どうか、その声を聞いて、イエス様に対する無限の、そして絶えざる信頼を呼び覚ましたいと願ってください。

イエス様ならできる。
イエス様は、私の力となり、私の命となって起きあがらせ、歩かせてくださる。

そのような信仰をもって、一瞬一瞬を「イエス様!、私の膝に力を与えてください。イエス様! 私のくるぶしに力を与えてください。イエス様! どうぞ、一歩を踏み出させてください」といいつつ、ゴールが決まったら佐々木氏を思い出しながら「イエェーーース!!!」と連呼して下さい。徹頭徹尾、イエス様にお頼りして、立ちがあり、歩こうとするとき、貴方は思いがけないような力、すなわちイエス様の力が、私達の内の力となって溢れてくるのとを知るでしょう。その力を感じた時、貴方は真の意味での信仰(サポーター)を悟る事が出来るはずです。


イエス様と、イエーース氏、どちらもベガルタにとっては必要な人だと思っていますが、こんな事を書き込むと「お前は犯罪者の味方か?」と怒られてしまう事は確実です。確かに、淫行は良くありません。しかし、あの才能をこのまま消えさるのは惜しすぎます。なんとか、なりませんかな・・・。

2 件のコメント:

  1. セニョールって・・・、トピ主さんはテンロクさんなのですか?
    ここが新ブログで良いのですか?

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