2012年9月26日水曜日

ベガータ教の懺悔室 「信じる、それ以外に何もありません」



先週末、久々に、いつもの店で懺悔室という名の飲み会が行なわれました。神戸に対し、劇的な勝利を勝ち得て迎える飲み会では、皆の笑顔が満タン!!司教としても、そんな彼らを笑顔で迎えるべく、集合時間30分前には居酒屋へ到着し、先乗りでビールを注文。店員からは「えっ、2時間飲み放題のコースなんですけど、もうスタートしちゃってもいいんですか?」と問われたが、「何だよ、いつも使ってる常連に対して・・・この一杯はサービス、サービス」みたいな感じで正面突破!!結局、皆が集まるまで2杯も飲んじゃいました。2杯目の時なんか奥から店長が出てきて「ベガルタンさん、勘弁して下さいよ・・・これで最後ですよ!!」と念をいれられてしまいました。おおー神よ、こんな罪深き私を、どうかお許したまえ・・・。

全員集合して乾杯、やはりみんな笑顔だ。広島も劇的勝利した瞬間の情報が入った時だけ「おいおい、広島も勝っちゃったよ・・・」みたいな感じで暗くなったが、「まあいい、まあいいよ、とりあえず仙台も勝ちつづけて、広島にはプレッシャーを掛け続けますか・・・」というコンセンサスで再び乾杯!!今年は幸せな“乾杯”が多くでき、ベガータ教の信者としては望外の喜びです。主よ、ありがとうございます。そして、より多くの幸せをベガータ教信者にお与えください、アーメン。

ベガサポの我々でさえ、現在の順位と状況は“嬉しい誤算”。期待としては「去年よりも・・・いやいや、去年並みでもいいし、奮戦して4~7位くらいでもいいから我々を楽しませて欲しい・・」と思っていた方々がマジョリティーだし、悲観論者なんかは「残留してさえくれればいい・・」と思っている人もいた状況で、首位広島と「“勝ち点2差”での2位」という現状は、天国に居る親分だって「天晴れ!!」と言うはずですな。そんな状況でのミサにもかかわらず、信者の中には不安に苛まれている方がいらっしゃいます。どんな不安か、そろそろ懺悔室に移りましょう。この方々の不安は、深層心理での“我々の不安”でもあるのですから。

ベガルタン司教「さあ、最初の方、貴方のお悩みを主に語ってください」

主よ、私は信者歴3年目のOLです。ということは、皆様方が体験した「降格の悲劇、そして地獄のようなJ2時代」という体験はしておりません。それでいて、出来過ぎとも言えるくらいの今年の成績に、正直言って戸惑っています。もちろん、勝った瞬間は嬉しいんですよ。でも、1人でベガルタの事を考えていると、とっても不安になるんです。“ここから連敗したら” とか“怪我人が出たら”とか“累積で次から次へと出場停止となったら”・・・と、とにかく不安になってしまうんです。そんな私に、どうかお救いの手を差し伸べてください・・・。

主はこう仰いました

いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。『ヤコブの手紙』1章6節

祈りは信仰をもって祈らなければなりません。そして、本当に信仰に立って祈ろうとするならば、すべての願いを神様の愛にまったく委ねて、「主よ、私の願いではなく、あなたの御心をなしてください」と祈るべきであり、それはベガルタの試合結果についても同じです。つまり、我々が出来る事は、勝っても負けても「それが主のおぼしめし」と真摯に捉え、全てを受け入れることだけなのです。

「祈りは聞かれる」というは信仰の基本ですが、ところが実際は、祈りがせっぱ詰まったものであればあるほど、「もし、この祈りが御心でなかったらどうしようか」、「この願いを諦めろという御心だったらどうしようか」等々、巨大な恐怖の感情が、神様への信頼をぐらつかせてしまうのです。場合によっては、祈りが神様への訴え、強要、時には非難めいたものにさえなってしまいます。実は、私もそのようなことをしばしば経験してきました。降格初年度の開幕戦で横浜Cからボロクソにやられた時、都並時代の最終戦「これに勝てば入れ替え戦」と言う試合で負けた時、サンタナ時代における選手起用や戦術に対する「どうしようもない倦怠感」に苛まれた時・・・。とにかく、我々が体験した事は「この試合こそ、主のお力をお借りしてでも勝たねばらない!!」という試合と言う試合で、神は我々にお力をお貸しにならず、ともすれば「我々を地獄の入口」へと誘うような仕打ちに悩んだものです。今思えば、それは神がおお与えになった“試練”とも知らずに。

祈る場合、私たちは必ずこの壁を乗り越えて行かなければなりません。イエス様は「恐れるな。私を信じなさい」とお語りになっておられます。信仰が、そしてチームの敗北という恐れに勝たなければならないのです。その信仰とは、たとえ私の祈りがそのまま実現しなくても、私がもっとも恐れている事態が起こるとしても、イエス様は私を愛してくださっていることを信じる、チームを共にサポートしている仲間を信じる、という信仰です。この信仰こそ、私たちをすべての恐れから解き放つ信仰なのです。

「神様はどんな祈りも聞いてくださる」という信仰と、「たとえ聞かれなくても、神様は最愛をもって御心をなしてくださる」という信仰は、なかなか一つに結びつかないように思えます。私もうまく説明できないのです。けれども、実際は一つのことです。みなさんが、どちらも心から信じて祈るとき、きっとその答えが分かることと思います。そしてその答えを、我々は最終節に神から受け取ります。心配する事はありません。全ては神のおぼしめしです。

続く

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