ベガータ教の懺悔室
恐れることはありません、私は常に貴方と共にいます
鳥栖戦の前日、久々に仲間と居酒屋・・・じゃなかった懺悔室。いつ以来か忘れたが4~5年ぶりかと。ちなみに、ベガータ教の懺悔室とは楽天ブログ時代には人気のあったシリーズで、大まかに内容を言うと「ベガサポの悩みを皆で聞き、そんでもって皆で笑い飛ばそう・・・」だったような、ちょっと違ったような・・・久々だからベガルタンも忘れちゃったよ。
ベガルタン司教 それでは悩める仔羊よ、汝の心を開き、神の教えを請いなさい・・・
主よ、私はサポ歴4年のOLです。2年前に結婚し、心優しき夫と可愛い子供に囲まれて幸せに暮らしております。幸か不幸か、私が信者となった3年間は「何とか残留・・」を達成し、それ以上を求めるのは贅沢とさえ考えていました。しかしです、チームとしての公的な目標を、立て続けに達成できない現状に悩み、迷い、失望さえするようになりました。これ以上をチームに求めのは贅沢なのでしょうか?罪なのでしょうか?どうかお教えください。
ベガルタン司教 主はこうおっしゃいました・・・
わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。(旧約聖書『エレミヤ書』31章25節から)
現代人は便利で、豊かで、安全で、不自由のない生活をしています。それにも関わらず、悩み、迷い、思い煩い、失望している人が多いのはどうしたことでしょうか。毎年の成績にサポの魂は傷つき、毎年の残留争いに疲れ切り、トップ5という目標に躓き、応援する気力さえ失いつつあります。
イエス様は「人の命は財産によってどうすることもできない」(ルカ12:15)と言われました。物質的な豊かさ(チームの成績)を追い求めるだけでは本当に豊かな人間になることはできないのです。神の前に豊かになることを追い求めるべきなのです。では、どうすればいいのか?その答えは、ユアスタの中にしかないのです・・・違いますか?
主よ、自分は信者歴10年のサラリーマンです。
物質的な豊かさ(チームの成績)よりも、信者としての豊かさを追い求めるべきという神の教えを否定するつもりはありません。しかしです、やれトップ10とか、トップ5みたいな口だけ番長的な公約はたくさんなんです。結果、結果が欲しいんです。プロである以上、結果を求めないなんてありえません。私は間違っているのでしょうか?
ベガルタン司教 主はこう仰いました。
風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。(旧約聖書『コヘレトの言葉』11章4節から)
「今日は風が強いから」「雲行きが怪しいから」と手をこまねいていても人生は思い通りに流れません。そんなことでは種蒔きもできず、刈り入れもできず、結局何もしないで終わってしまうと、神様は警告しているのです。
手をこまねいて好い日が来るのを待つのではなく、どんな日にも種を蒔き、どんな日にも刈り入れをして、今日という日を好い日にしましょう。「金がないから」「選手層が・・」「監督が・・」「若手が・・」現状に不満を言うのではなく、今のチームの中に未来を見つける努力を惜しまないことです。神様と共に働けば、どんな日もすばらしいチャンスに満ちています。すべてを善に変えてくださる神様の祝福の力を信じましょう。
主よ、私は今年から信者となった専業主婦です。私は、ネットなどで仙台の事をバカにした会話などを見かけると、ムキになって反論してしまいます。まだまだ修行が足りないと思いつつも、我慢ができず、ついつい反論をしてしまいます。こんな私に、尊いお言葉をおかけください・・・
ベガルタン司教 主はこう仰いました・・
高慢には軽蔑が伴い、謙遜には知恵が伴う。(旧約聖書『箴言』 11編2節から)
傲慢とは神の御業に逆らうことであり、謙遜とは神の御業をありのままに受け入れることです。たとえば自分の思い通りにならない時、チームが中々勝てないときに腹を立てるのは傲慢なことです。そういう時にも神の御業を認めて、他人や出来事を受け入れることができる人こそ謙遜な人です。
また、自分をつまらない人間だと卑下することや、「仙台は金がないから・・」みたいな言葉は謙遜ではなく傲慢です。自分が他人と比べて欠けの多い小さき者であっても、ありのままの自分を神様の御業と思って、思い上がるのでもなく卑下するのでもなく、自分という存在を、そしてチームという存在を大切にできる人こそ謙遜な人なのです。そのような人にこそ人生の真の知恵が伴う・・・。そのよう信者が多いチームこそ、必ずや神はお助けになるはずです。
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