2016年10月20日木曜日

ベガルタン、聖ベガルータ教会へ行く


ここは仙台市泉区の郊外にたたずむ聖ベガルータ教会。この教会に居るベガリターノ司教は人格者で、その教えを請う人や、悩み事を打ち明ける人などが大勢集い、教会とは思えないくらいの活気に満ち溢れている。もちろん、ベガルタンもその一人だ。今日は毎年恒例、司教に「今年のベガサポとして」の懺悔をしに来たのだった

小春日に包まれたかのような今日この頃、ベガルタンは泉区の聖ベガルータ教会へ車を走らせていた。普段であれば、仙台の状況などを語りながら楽しく時間を過ごすのであるが、今回は自らの悩みを打ち明け、現状における「もう、とっくの昔にオフシーズンモードですから・・」的な堕落した感情、これをどうしたら改善できるか?を、ご教授していただこうという訳である。

教会の中へ入ると、普段ならば雑談する小部屋もハッピーハロウィン仕様になっていた。ベガリターノ司教も信者たちと飾りつけの真っ最中、そこには間違いなく「温かい光」がある。そして、その光の大半は、ベガリターノ司教の笑顔から湧き出ている事を、誰よりもベガルタンは知っているつもりです。

ベガルタンに気づいたベガリターノ司教は、私を司教の執務室へ手招き、マロンケーキを戸棚から出してきた。
司教「これ、最近のお気に入りなんです」
自分「美味しい!信者さんの手作りですか?」
司教「いえ、実はコンビニなんですよ」
自分「えっ、コンビニ?」
司教「便利な世の中になりましたね、ただし、人の心だけは買えませんけど」

その言葉でスイッチが入り、ベガルタンはベガルタの現状と、それを応援する自身の応援姿勢について、司教に対して悩みを打ち明けたのだった・・・

自分「リーグも中断期に入り、残留も確定、ここから例え3連勝しても順位が1つ上がるだけで、そこに意味や意義を持たせるのは困難です。若い選手が出てきたとはいえ、チームのポジションは恒例の二桁。得点力は乏しく、失点は増加傾向。昨年よりも勝ち点は増えたとはいえ、目標のトップ5は遥か彼方。

怪我人も年々増える傾向があり、とてもチーム力が底上げしているとは思えず、勝ち点が厳しくなれば「まず守備から」に逆戻り、パスを繋いで攻撃的なサッカーを標榜しても、チーム苦しくなれば「堅守」がベースの手倉森サッカーへ。結局苦しくなったら、鍋監督がいうところの「我々には苦しくなった時に戻るべき場所、土台がある」へ逃げることが続いていると思うんです。逃げてるという表現が悪ければ、一度立ち止まって戻り続けていると思うのです。

つまり、いつでも帰れる場所があるので「チーム状況が厳しくなったら、そこへ逃げればいい・・・」という状況こそ、今となっては不要なのではないか?そして、その状況へ逃げ込むことを選択する渡邊は良い監督なのか?本当に怪我人が多いから、しょうがないのか?今のチーム力では他に選択肢はないのか?道は1つしかないのか?等々、そんなネガティブな人を考えていたら、チームの応援にも身が入らないと言うか、なんと言うか・・

司教「だいぶ苦しんでいるようですね。う~ん、そのような難しい疑問に私が正確に答えるのは困難です。ただ、あなたの悩みを聞いて、主の、こんな言葉を思い出しました・・」
「わたしたちの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」 ヤコブの手紙1章2節

 目に見える望みは、望みではありません。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。ローマ人への手紙82425

ユアスタへは行かない、応援しない、情熱が続かない・・・つまり、ベガルタから逃げ出したい人たちにとって、今の状況は最高です。しかしながら、目に見えるものにとらわれやすいのも人間でしょう。目先に執着するのが人間ですが大事なことは、目に見える望みは、本当の望みではないと聖書は語っています。本物の望みは絶対に目に見えないのです。

ベガサポの望みとは何でしょうか?大金をつぎ込み、スター選手を獲得し、毎年のように優勝する・・・。そうかもしれませんが、それは望みの一部ではありますが、全体では決してない・・・と私は信じています。じゃあ、何か?目に見える望みが「望みではない」とするのなら、忍耐をもって熱心に待つのは何なのか?

それはきっと、西京極での財のゴールであり、大分でのシルビの涙であり、入れ替え戦でのリャンの涙であり、j2優勝を手繰り寄せたセレッソ戦でのパックンのヘッドであり、震災後に川崎で行われた太田のゴールではないのでしょうか?もちろん、これらのシーンは目に見えるものですが、大切なのは目に見える事象ではなく、それらのシーンに至るまでの「心の葛藤」や「そのシーンに至るまでの過程」だと私は信じています。

 その言葉に涙し、ベガルタンは教会を去りました。初めてベガルタを観戦したサポでも、財のゴールや太田のゴールを見れば感動するはずです。しかし、その過程を共有している者と、そうでない者との間には、同じく泣いても、その想いには天と地ほどの差が出るはずです。可能であれば、私は「共有している者」として、人生を歩みたい・・・。心の底からそう思ったベガルタンです。

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